おばあちゃんとの記憶はほとんどない。というか、親戚の集まりというものに顔を出したという記憶がほとんどない。僕らの家族はそういうのがとても苦手だった。そんな中で育ったものだから、21歳になった今も、ろくに親戚の顔も知らない。
西の魔女が死んだ
魔女という言葉からどのようなイメージを思い描くだろうか。
魔女とはもともと、天気予報をしたり、薬を作ったり、生活の知恵を人々に与える役割を持つ人を指している。親から子へ、子から孫へ。知恵というものは受け継がれて行くのだ。小さい頃、家の周りを走って遊んでいた時に、転んで膝から血を出したことがある。痛みを感じながら母親のところへゆくと、母がヨモギか何かの草を持ってきて傷口にあてがい、治療してくれたことがある。もっぱら、その治療法は間違いであって、化膿してしまったが。
実際に、現代を生きる僕らが持つ情報も過去から学び取った教訓の上に成り立っているのではないだろうか。この小説の中で、おばあちゃんはまいに様々な知恵を授けている。例えば、ハーブやミントをお湯に浸し作った「ミントティー」を畑に撒くと虫が寄ってこないなど。その性質を利用して、殺虫剤が作られたという経緯がある。意識はしていないが、確実に、現代に受け継がれている。
ぽたぽた焼というお菓子がある。味もさることながら興味深いのは個包装にされたせんべいの袋に書かれている「おばあちゃんの知恵袋」というコラムだ。例えば、「簡単な毛玉の取り方」や、「長持ちする野菜の保存方法」など、日本古来より伝わった生活の知恵をまとめた記事が載っている。なかなか興味深く、為になる情報が掲載されている。
この小説の中の「おばあちゃん」はまさに、生き字引のような人間だ。小説はそのおばあちゃんが亡くなり、母と「まい」がおばあちゃんの家へ向かうシーンから始まる。その道中の中で”まい”はおばあちゃんと過ごしたひと月ほどの記憶を思い出す。
登校拒否。
現在も多くの学生が学校へ行くことを拒むという。かくいう僕もその一人だった。学校のことを考えるだけで辛くなるのだ。行きたくない、できることなら家から出たくない。そんな時もあった。
そんなまいを温かく迎えてくれるのがおばあちゃんだった。
まいはある意味で現代社会の象徴だとも言える。まいは真っ直ぐで、かつ、真面目な少女。それが故に、問題に対してぶつかってしまう。そんな風に見えた。
人は多かれ少なかれ、この様な性質を持った生き物だと思う。柔軟に生きる。頭ではわかっているが実行できない。それは自分の中のプライドや信念、そういったものを大切にしたいという欲求からだろう。
まいの成長、おばあちゃんの行先
小説の中でまいは成長して行く。魔女修行という過程の中で、徐々に感受性が豊かになり、最後には問題を克服してしまう。この小説では度々、「生死」というテーマが見え隠れする。小説の冒頭もおばあちゃんの死から始まる。父親と死んだ後について話し合う。そして、小説のタイトルも「西の魔女が死んだ」。
生きるとは何か?死ぬとは何か?
数多くの人々がこの問題に苦しみ、自ら死んでしまったり、生きるのに絶望したり。この問題は多くの人を悩ましている。
だが、ふと考えて見てほしい。死ぬことに意味を見出すことができるように、生きることに意味を見出すこともできる。
この小説では、おばあちゃんとまいの二人暮らしを描くことで「生きがい」を描き出している。洗濯機がない。それなら桶に水を入れて、足で踏んで洗濯をしよう。ジャムがない。なら作ろう。
死ぬという「結果」を求める前に、「生きる」という過程を大事にしてほしい。この小説は僕らに大事なことを教えてくれる。
さぁ、ハーブティーを飲んで一服しよう。
室田 青
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